飛田新地雑感

編集部便り

大阪の飛田新地の存在については数年前までは「タブー中のタブー」で、インターネット上であれこれ書くのも憚られるような状態だった。当編集部は5年前に大阪DEEP案内の前身となる某サイトで書いた事があったのだが、身内の知り合いから何だか脅され気味に飛田の事は書かない方が良いと諭されて公開を辞めてしまった事があった。以後、大阪DEEP案内で軽く書いただけで留めていたのだが、この5年間で色々と飛田新地にまつわる書籍も出回るわで随分タブーが薄れてしまったように思う。

さいごの色街 飛田

12年間飛田新地を取材して回ったという井上理津子氏の著書「さいごの色街 飛田」もなかなか衝撃的だった。ちょっと知らない間にSHINGO☆西成が飛田新地新春ライブ(女人禁制)をやらかしたり、いつの間にかストリートビューで丸見えにされてしまっていたり、色々面白い事になっている。

我々取材班も年に一度か二度くらい大阪市西成区に出向いた時に飛田新地の様子を眺めに行く訳だが、外国人観光客が物見遊山している様子をかなり見かけるのだ。近年バックパッカー宿化が激しい釜ヶ崎のドヤ街から近いということで物珍しさにやってくるのである。

彼らから見る飛田新地の風景は感覚的にはアムステルダムの「飾り窓」みたいなノリだろうか。飾り窓はオランダの首都アムステルダム中央駅のそばにある売春街。日本に例えると東京で言う丸の内あたりにちょんの間があるようなもんで、一等地にそういう場所が堂々と商売をしているお国柄なのだ。

飾り窓はロンリープラネットにも書かれているような観光名所になってしまっているが、外国人観光客が訪れるようになった飛田新地のポジションもそんな感じになりそうな勢いである。

もしや江戸時代の遊廓がほぼ同じスタイルで大阪の地で堂々と残っているだなんて大阪市内に住んでいる人間でも知らないのに外人から見ればそりゃぶったまげるだろう。昭和33年の売防法完全施行後に全国にあった遊廓は表向きには殆ど商売を辞めてしまっているのだ。今の世代には「遊廓」という言葉や存在自体も忘れ去られているであろう。

編集長逢阪は大阪市の出身である。とはいえ実家は釜ヶ崎や飛田新地がある西成区の北側からは自転車で気軽に行ける距離ではなかったので、「絶対に行ったらあかん」と噂に聞く程度で実際に行った事があるのも中学生以後の事だった。とある真夜中に興味半分に釜ヶ崎界隈を自転車で抜けたら地元のヤクザ車に山王の商店街で擦れ違いざまに追いかけられ怖くなって天王寺駅へ至る坂道を必死で登っていった記憶がある。

さすがに大阪市民で社会人ともなるとそれなりに飛田新地や松島新地の噂を耳にする事にもなる。地元の悪ガキどもも18歳になるかならないかの時期にこういう場所に出向いて「筆おろし」をする事も珍しくない。大阪出身であればこうした新地の存在もごく当たり前で、むしろ東京など他の地域に出てから、こんな場所は今や大阪周辺にしかない現実を知って「ホンマかいな」と目が点になる訳だ。

激しい大阪大空襲の歴史もあったが幸いにも遊廓建築も数多く残っていて文化的遺産と言っても良いレベルの町並みが飛田新地の素晴らしい所だが、ここで商売している人々にすれば余り有名になり過ぎるのも悩みの種でしょうな。こっそり商売を続けていた五条楽園も真栄原社交街も次々潰されているという厳しい現実。 「男と女がいる限りうちは絶対必要やん」と組合のボスはおっしゃっていたようですが…

飛田新地は組合の決まりで夜中の12時(年末年始は午前1時まで)になればシンデレラの如く店を閉めてしまうので、建物を眺めたりするなら夜中か朝早くに訪問される方が良い。「営業中」の時間帯に、それこそ女性連れで物見遊山などすればやり手ババアや遊女に散々な罵声を浴びせられる事だろう。「お前らの来る所じゃない」と。


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