阿部定ゆかりの地を訪ねる…芸妓から娼妓へ、そして阿部定事件

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二二六事件の裏側で昭和初期の日本に大スキャンダラス旋風を巻き起こした「阿部定事件」で有名な阿部定について。DEEPで奇異な人生を送った彼女のエピソードはネット上にいくらでも書かれているので、このページでは主に事件前までの定の人生について、こちらの興味を惹かれる部分だけ掻い摘んでまとめていきたい。

誕生日は明治38(1905)年5月28日、生まれは東京神田の畳屋の七人兄妹の四女。思春期を過ぎてから遊び癖が酷くなり父親や兄に「そんなに男が好きなら芸者にでもなれ」と言われ18歳の時に女衒の秋葉正義に売られ横浜住吉町「春新美濃」にて芸妓デビュー、しかし関東大震災で秋葉の家が全焼し、家計を助ける為にと富山清水町の平安楼に店を変える。

しかし秋葉に騙され食い物にされていると自覚した定は縁を切ろうと今度は借金返済のため信州飯田の料亭三河屋に前借金をして勤めるようになる。三河屋では売れっ子の芸者になるが客に性病を移されてしまう。「検黴を受けてまで不見転芸者でいるならばいっそのこと」と娼妓の世界へ身を落とす。

昭和2(1927)年、22歳の時、大阪の飛田新地にある高級妓楼「御園楼」に身売りしてそこでまたしても売れっ子娼妓になるのだが、その後は各地でトラブルを起こしながら転々と遊郭を移り、最後にやってきたのが兵庫県篠山市にあった京口新地の大正楼。ここは下等の妓楼であり日々の仕事はかなりきつく、たった半年で大正楼から逃げ出した。定の娼妓生活はそこで終わる。

阿部定事件 大阪市

今ではちょんの間料亭街として全国的にも珍しい存在となった飛田新地。現役の「遊郭」ですからねえ…ちょっと捜し物でうろうろするのも躊躇われる場所である。「御園楼」というのはどこにあったのか、ちょっと分かりません。昭和2(1927)年、阿部定は御園楼で「園丸」の源氏名で働いていたが半年くらいで辞めてしまいその後は店を代えたり名古屋に移ったり、客の指輪をくすねたりトラブルを各所で起こしている

阿部定事件 篠山市

その後に流れ着いたのが丹波篠山の京口新地。陸軍歩兵七十連隊の慰安所として置かれた経緯がある遊郭。その中でも「大正楼」は下等遊郭だった。この大正楼含めて旧京口新地には遊郭時代の艶やかな建物が三軒程、現在も残っている。阿部定は昭和7(1932)年、27歳の時に大正楼に「おかる」「育代」の源氏名で半年程働いていたが仕事に嫌気が差して脱走。娼妓生活にピリオドを打つ。

それから神戸や名古屋で高級娼婦や妾、女給などをして過ごしていたがその間に実家の母が死去する。名古屋の料亭「寿」で知り合った大宮五郎と交際、定を更生させるべく新宿の口入屋の紹介を経て中野新井薬師の料亭「吉田屋」にて「田中かよ」の偽名で女中として働くようになる。昭和11(1936)年2月、31歳の時であった。

だが今度は吉田屋の主人、石田吉蔵と不倫関係になる。それはたちまち妻の知るところとなり、激怒した妻に追い出され定と吉蔵は同年4月23日に出奔。しばしの放浪生活が続く。

そして5月18日、現在の荒川区にあった尾久三業地の待合「満佐喜」に2人は泊まっていた。そこで彼女が起こしたのが…もう説明するまでもなかろう。

阿部定事件 中野区

今は寂れた下町といった中野の新井薬師界隈。新井薬師門前の柳通りがかつての新井三業地だった。災厄の舞台となった料亭吉田屋は阿部定がやってきてわずか2ヶ月で店がぐっちゃぐちゃにされてしまった訳で、彼女は不幸を呼ぶ女でしょうか。吉田屋は現存していない。

阿部定事件 荒川区

阿部定事件の舞台である尾久三業地は現在の荒川区西尾久二丁目付近。待合満佐喜の建物も残っておらず普通の住宅地に変わっている。碩運寺前に「寺の湯」があったことを示す看板が立っているくらいか。寺の湯は後に「不老閣」となりラジウム温泉が湧いたこの界隈には温泉旅館が立ち並び三業地成立のきっかけとなった。

事件2日後に品川の旅館に偽名で泊まっていた阿部定は高輪署の刑事に身分を明かし逮捕。収監されるも特赦で5年後には釈放されている。それから「吉井昌子」の名で生き同棲生活もしたが、暴露本の出版で憤慨し名誉毀損で版元を告訴、夫は自分の妻が阿部定と分かるや失踪し生活が破綻。傷心するも以後偽名を捨て阿部定として生きる覚悟を決意し手記を出版したり本人出演の「阿部定劇」の全国巡業までやってのけるなど波瀾万丈に過ごしたが結局姿をくらまし、最後まで一人で転々としながら生きていた。

昭和44(1969)年公開の映画「明治大正昭和 猟奇女犯罪史」のワンシーンに阿部定本人が出演してインタビューに答えている映像がある。何故かその映像がyoutubeにあがっているのだが…この当時で63歳。その後は千葉県鋸南町の勝山ホテルで従業員をしていたという65歳の時を最後に、一通の置き手紙を残し行方をくらました。

彼女はその後いつどこで生涯を閉じたのか、それすらも明らかになっていない。



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