
当方が見ているテレビ番組の中でも最近とりわけ気に入っているのがNHK総合で毎週金曜日の夜に放映される「ドキュメント72時間」。この番組、ただ単に特定の場所に72時間居座って人間観察しているだけの番組ではない。現代社会の病理が垣間見える「吹き溜まり」のような場所をわざわざ依り好んで取材対象にしている向きがある。
勿論番組スタッフの「嗅覚」が鋭いのも感心するが、取材対象に選ばれた「特定の場所」に出現する人々を観察する視聴者達が好奇心と半ば蔑みと哀れみが混じった、やや悪意とも受け取られない人間の感情をその場の登場人物に向けながら見て楽しむという、そんな実は下衆っぷり極まりない「人間ドキュメンタリー番組」なのである。
その取材対象も「大阪の天神橋筋商店街のベンチ」「神戸の工業地帯和田岬の駄菓子屋」「札幌の長距離バスターミナル」「青森県黒石市の100円温泉」「足立区竹ノ塚のフィリピンパブ」「鶯谷駅前の大衆食堂信濃路」などと、どの場所も絶妙に社会のメインストリームから外れた、エアポケットのような空間にピンポイントに狙いを定めているのが凄い。
以前に当サイトでもお伝えした茨城県日立市の「塙山キャバレー」や新潟県燕市の「公楽園」、それに沖縄県恩納村の「シーサイドドライブイン」にも取材を掛けていて、番組スタッフもきっと当サイトを見て取材先を決めているのだろうかと勘繰りそうにもなるのだが、何よりもその「攻め」の姿勢に目が離せない番組の一つとなっている。個人的にNHK総合、テレ東がここ数年間好きな放送局だ。

そんなドキュメント72時間に是非取材対象にして欲しいと思えるようなとっておきの酒場が東京の外れ、江戸川区は一之江という土地に存在する。「大衆酒場カネス」という名の老舗酒場である。
今では都営新宿線の駅があり微妙なベッドタウンとして適当に発展している一之江の街だが、一般的な知名度はとんと低いマイナー地帯で、敢えて言うならば隣の瑞江という街が元モー娘で今は一児の母となった後藤真希とその弟の電線泥棒で捕まった元EE JUMPのユウキが暮らす一家の地元と聞けば「あー」とならないだろうか。
ここは駅から徒歩10分以上離れた「今井街道」沿いの古い商店街の成れの果てのような土地に根を下ろした酒場。そして、かつてトロリーバスが走っていた街の中心でもあった。
地下鉄が開通してからは街の中心から外れ、ひたすら寂れる一方の姿しか見せない古い商店街の外れに古風な店構えでぽつりと佇み、赤提灯と暖簾を掲げて凛とした姿を見せるこの土着酒場の存在は、まさしく「東京の最果て」という言葉を当てはめるにこれ以上しっくりした表現はないだろう。
広い間口の玄関に二つ並んで掲げられている暖簾をよく見ると、「大衆酒場」「中華そば」とそれぞれ書かれている事に気が付く。赤提灯にも「にこみ」「中華そば」とある。おおよそ西暦2016年の東京の風景とは思えない、半世紀前に遡ったかのような店構えに吸い込まれるように中へ。

予想に反して開放的なくらいに広い店内を見渡すとその左半分に使い込まれた木製のコの字テーブルを囲んだカウンター席、右半分には4人から6人で囲めるテーブル席とに分かれている。だがここに来た客の多くはこの店の名物でもあった御年95歳の大女将を取り囲むカウンター席に陣取り、常連客と向き合いながら酒を呑む。

店舗の壁には相当な年代物であろう写真や付き合いのある古い業者からの寄贈品であると思われる額縁なんかが色々と飾られている。驚く事にこの酒場の創業は昭和7(1932)年にまで遡るという。かれこれ80年以上もこの土地に根を下ろして営業している、筋金入りの土着酒場でもある。

現在の大衆酒場カネスの建物は昭和39(1964)年に建て替えられたもので、それ以前は店の壁にも掲げられている通りの「茅葺き屋根」の建物で商売していたという。右側の額縁には戦後の一時期に走っていた「城東電車」の車両の姿もある。

その城東電車に代わり昭和43(1968)年に廃止されるまで走っていた都営トロリーバス。東小松川、松江、一之江、瑞江、今井橋の区間を往来していて、かつては電停がカネスの真ん前にあって、仕事帰りの客でたいそう繁盛していたらしい。

そんな大衆酒場で出される料理の数々もひたすら土着的。95歳の大女将が鍋を見守り続けている名物の「にこみ」もまた昔ながらの感じがする、臓物臭の抜け切らないワイルドな香りに満ちた一品。この臭いもイマドキの感覚からすれば好き嫌いが分かれるのだろうが、昔気質な酒呑みにはむしろ酒の肴にはかどる臭いなのであろう。左側のチープな容器に入れられてやってくる「どじょうの柳川」も捨て難い。

あとは刺身やぶつ納豆、エシャロットやらっきょう、塩辛、ニシンの蒲焼きといった古風なメニューがぎっしり揃っていて、料理に付いての薀蓄は既に酒場歩きの先達である吉田類先生が「酒場放浪記」でお訪ねになっているので割愛する。
ただ、暖簾にも掲げている大衆酒場カネスの名物、この写真の通りの「中華そば」が無性に食いたくなってわざわざ東京の外れのこんな場所にまで何度も食べに来たくなるのだ。
この中華そば、特別旨いかと言われればそうでもない、全くもって洗練された感じもない、本当に昔のまんまの庶民の食い物ですと言わんばかりの、色気もへったくれもなくナルトとメンマとしょぼいチャーシューが乗っただけの少し塩辛さを感じる古臭い中華そばを出してくれる。これが酒を呑んだ後の胃袋に異常にまで染み渡るのである。
何度もこの酒場には足を運んだが、特にヤバイのがこんな東京の外れの酒場にやってくる常連客の数々。一部に「酒場放浪記」あたりを見てやってきました的な大概見た目30~40代くらいのこざっぱりとした格好の遠方の酒場マニアの単独客も稀には居るが、殆どが近所に住む一之江の土着民と思しき50~70代くらいの常連客ばかり。
仲良く二人で飲んでいたかと思ったら片割れが帰った途端に仲間の悪口を言い始める難儀なオッサンもいたり、たまにやってくる若い女性連れには初対面であろうが容赦なく「一発やらせろ」「おっぱい大きいね」とセクハラ発言を浴びせるどうしようもない親父達。アルコールが入れば何を言っても許される解放区なのだと思い込んでいるのだろう。
ホントこのオッサン達はいい歳こいて何やってるんだ…と野暮な説教じみた目線になってしまう事もこの場のユルユルな空気がそうはさせてくれない。アホな酒呑みの大人達のおふざけも、その全てを不思議と赦してしまいたくなる。そんな大人の心の海の広さをこの東京の外れの酒場で垣間見る事ができるのだ。
ここは本当に21世紀の東京なのか??全ての感覚が「昭和」に戻ってしまいそうになる…

そんな大衆酒場カネスの「空気」の中心に居た大女将の浅野静子さん。大正生まれながら現役で店に立って「にこみ」の番をしながらカウンター越しに元気な姿を見せていた。若干耳は遠いものの受け答えはハッキリとしていて、我々にも戦時中の御家族の話や店や街の歴史を饒舌に話して下さった。
店は夜10時までの営業だが、夜8時前くらいになると就寝する為に大女将はよっこらしょと店の奥へと消えていく。あれこれ食って飲んで常連客とのバカ話に付き合ってから店の外に出ると、もう目の前の今井街道は真っ暗で人通りもまばらになっている。
残念なことに実はこの大女将、2016年2月22日に逝去されたとのこと。享年96歳。年齢が年齢だけにいつかその時は来るとは思っていたが、実際にその時が来てしまうとこれ程悲しい事はない。機会があればもっと話をしたかったものだ。
大女将の逝去を受けて、大衆酒場カネスも当分の間休業をしていたようだが、最近再開したとの情報もあった。この一之江という東京の外れの街では、他にアホでユルユルな下町親父達が気楽にたむろできる「オアシス」はそうそう見つけられない。大女将亡き後もこの空間は生き続ける…ああ、一之江に行く用事が無くならなくて良かった。
そしてNHK「ドキュメント72時間」でこの酒場を是非取材して欲しいと勝手な思いを募らせている。